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体験した気にさせる物語ってどうなってるの?

真船豊「佛法僧」のレビュー

ストーリー

 戦後間もなくだろうか、どうやら山寺に女が二人いる。寺には大きな庭があり、女たちが何かしている。他の人の気配はない。
(以下引用は、全て 真船豊「佛法僧」日本放送作家協会編『現代日本ラジオドラマ集成』沖積舎、1989 より)

きむ子「明子、まだかい?」
明子「母様、ちょっと待ってね……ああもう少しだわ……」
きむ子「明子、まだなの?」
明子「も、ちょっとよ、母ァ様。」

 上記は、冒頭の台詞。ふたりの女は親子らしい。母は高圧的で、娘は従順な印象を受ける。何をするかと思えば、母は庭で行水をさせろという。そのため、娘に湯の用意をさせている。だが、戦後のことで石鹸がない。

きむ子「(略)…母ァ様のお化粧箱を見て頂戴……戦争前の母ァ様常用の、ほら、コティーの石鹸が、ちゃァんと入っています。」
明子「(打喜び)まァ、母ァ様は……」
きむ子「フフーン、早く持って来ておくれなね。」
明子「はい、はい……」
きむ子「明子! でも、あなたは、絶対にそれをつかっちゃいけませんことよ。」

 なんて嫌味な「母ァ様」なんだ、義理の母か? など想像させる(実母)。もしかして、魔女のような女なのかもしれんと。しかし、次の台詞で、頭の中の「母ァ様」の顔は、ケイト・ブランシェット級の美人になる。

 

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明子「ああ、あのね、母ァ様の、お肌が、まァ何てお美しいでしょうって……」
きむ子「そうお? そんなに、美しいかい?」
明子「あら、本当よ、母ァ様……モチモチもり上がっていて、まるで本当に、娘さんのようなんですものねえ……本当に、母ァ様って方は、不思議な方だわ……」

 美しい母に対し、娘さんは少しのんびりされていて容姿もいまいち。本人はこういっている。

明子「(略)頭の中に、いつももやのような、霧のようなものがかかっていてね、耳はいつも、水の音が聞こえているのよ……」

 さらに母からは、「どうしてこんな、醜い子が生まれてしまったのかねぇ」と愚痴をいわれる始末。


 そんな二人による会話劇。このドラマの放送は、昭和23年8月20日

 

真船豊

 この作品を書いた真船豊(1902~1977)は福島県生まれの劇作家。農民運動に参加した過去をもつ。代表作は「鼬(いたち)」「残された二人」「黄色い部屋」、他に喜劇も多数。映画化された「太陽の子」「裸の町」なども有名(らしい)。正直、私は初めて知りました。
 ただ、彼の評論を読むと(日本近代演劇史研究会「20世紀の戯曲」社会評論社より)、アーティスティックな方という印象をうける。 「目先の欲望によってのみ動く人々を、肯定も否定もしていない」そんな書き方が特徴らしいからだ。
 物語のエンジンを人物たちの「欲」とした上で一歩ひく、そんな書き方ができた人のようだ。

 

志村けんの「だいじょうぶだぁ」との共通点

 『鼬』を振り返り、真舟氏は架空の田舎を想定したと述べている。舞台は東北のどこかの村で、現実には存在しない場所だ。真船氏は福島の人だが、会津弁をベースにした人工の言葉を用いて、写実的ではなかったと自認している。
 志村けんの「だいじょうぶだぁ」にも似た経緯がある。志村氏の兄嫁の実家が福島県会津らしく、遊びに行った時、地元の人に「だいじょぶだぁ、だいじょぶだぁ、だいじょぶだぁ」と言われたことが可笑しくて志村氏なりにアレンジしたのだとか。
 どちらも会津弁をベースに、創作したものだったのだ。

 

主人公をいじめる

 かつて久保田万太郎から「あなたは、いつもいつも、どうしてかう主人公を苛めるの…?」と指摘されたという。

 真船氏、述懐して曰く「これでもか、これでもかと、本音を吐かせることに、窮々として、作品を書き続けてきた」と。
 作品の主人公はどこか作家の分身の側面がある……。とすれば、自分を痛めつけて、「人間」をさらけ出そうとしたのかもしれない。恐ろしいほどに、人間の追及を行った作家ともいえる。

明子「母ァ様、無理よ……これじゃァ? ……あらまァ、襟白粉までなさるの! 母ァ様ァ?」
きむ子「黙ってらっしゃい……女はみだしなみがいのちよ……あなたなんぞ、見てごらん……あなたは、先ずお顔をそることさえも知らない……いくら喧しく言っても駄目、時分で自分を、一層醜くくしているんだものね……」
明子「母ァ様はまァ、見る見る美しくなっちゃったわ……おう、気味の悪い母ァ様!」
きむ子「おや、ふくろ(原文のまま)が鳴いているのね……」
明子「うむ、白粉をそんなに厚くぬると、気味が悪いわ、母ァ様……」
きむ子「幽玄な、底の深い、いい声だこと……」
明子「まァ嫌だ……あの鳥、陰気な嫌な声……気にしだしたら、とても嫌だわ、母ァ様……」

 

やばい点

 冒頭、お寺の庭で年増の美女が行水をする。娘はこき使われているが、母の肌の美しさにうっとりしてしまう。このギリギリのラインに、太宰治『斜陽』っぽさを感じる。作り話のはずなのに、圧倒的にリアルで、ありそうな話に感じるのだ。
 劇作家は彼女たちの行動をメモしただけで、キャラクターが勝手に動いているように読める。生の声が聞こえてくる。こんな戯曲は、ありそうでなかなかない。