G-EXPERIENCE

体験した気にさせる物語ってどうなってるの?

飯沢匡「数寄屋橋の蜃気楼」レビューっぽいエッセイみたいな

エッセイみたいな

 町で警察官に声をかけられた。
「もしもし君はそこで何をしてるんですか」
 初めてだ、こんなふうに声をかけられたのは。公道の脇で何をしているのか、即答できない状態にいた。
「困りますね。今このお嬢さんが訴えられたんですがね」

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「君は軽犯罪法というものをご存知ないのですね」
 法律を心配する暮らしとは縁がない、はずだが…。
「じゃいいましょう。このお嬢さんがあすこから出てこられたら、君がそこでひき蛙みたいに這いつくばってたというわけです」
 ん? 町でひき蛙のマネをしてはいけないという法があったか。

 

 もう一度、発言を冷静に考えてみよう。
「もしもし君はそこで何をしてるんですか」
 街にいるだけでこう言われた。わたしは、何をする(もしくは何もしない)人間か。一体何者であったか。
 していたことは、いわゆる「覗き見」かもしれない。だが、もっと深い問題に衝突した。

 

 子どものころ、近所のお祭りで神輿をかついだことがある。子ども神輿ながら重量感があり、途中の休憩場所でお菓子をたらふく食べた。何より楽しかったのは、一時的に大通りを止めて練り歩くことだ。
 普段歩けない場所を歩くだけでも興奮する。自動車しか通れない道。中央分離帯を近くでみると、枝の感じがゴツゴツしていた。歩行者天国とは別物の非日常があった。

 

情報番組のアナウンサー「~実は、これは数寄屋橋の蜃気楼をみようという人々の姿であります。数寄屋橋に蜃気楼が見えるということは、たしかに世知辛い世の中に一脈の詩情を漂わすニュースで~」

 

 公の場所にはルールはあるが、その基本はみんなの場所だ。だからこそ、今日の社会の縮図とみることもできる。

「わたしは蜃気楼をみていたのですよ」

 蜃気楼を見ようとして動物のマネをしてダメなわけではない。見る角度が問題だ。

 

※上記セリフ部分はすべて
飯沢匡数寄屋橋の蜃気楼」『現代日本ラジオドラマ集成』沖積舎、1989 
から引用しております。

 

レビューっぽい

 本作は、安部公房のようでもあり、ドキュメントとSFをあわせたようでもある。良質なモノクロ映画のような展開が用意されている。
 何より良いのは、ユーモアがある点だ。多くのラジオドラマはシリアスに偏り、聞いていて申し訳なくなるほど窮屈なものが多い。残念ながら、ユーモアが欠けている。
 ラジオドラマは、リスナーの感情部分にひびきやすい。直球でやってくる。それだけに息苦しくなってしまう。
 ユーモアの感じられる本作は、こちらの感情の幅が広がり、感動も大きくなる。