G-EXPERIENCE

体験した気にさせる物語ってどうなってるの?

「猿の惑星: 新世紀(ライジング)」のレビュー

「ヒトの世紀が終わろうとしている。」前作から10年後の世界。ヒトと猿の交代劇は、避けられない闘争へ。
戦争の原因にせまるなど高評価はされているが、前作に比べるとそこまで弾けた評価でもない。

このリアル。ゴリラ、こわっ!
ドリトル先生みたいに、動物と話してみたいって思いますよね。でも、本当に話せたら、きっと泥だらけにされて、相手の口の匂いなんて、これまた凄いんでしょうね。
この映画、トゲトゲした自然の猛威も伝わります。まるで森でテント生活したみたい。ラジオドラマでこれをやっても、動物との距離は伝わるでしょうか。小説で没入していれば、匂いや湿気、雨の冷たさを感じさせてくれるのですが…。

本作は、オーディオだけでなく映像に圧倒的なリアリティーがあるので、臨場感にあふれているのかもしれません。

 

  • どうして殺しあうのか

今作のテーマは、「同種殺し」「原罪」といったもの。何をしても、一度転びだすと止められない殺意。キリスト教的なテーマですが、どうして同種で殺しあうのか。どうして争いがおきてしまうのでしょうか?
シーザー様が、「APES! DO NOT WANT,WAR!」とおっしゃるのに。

 

  • 争いのもと

なぜ争うのか。とてつもない疑問で、これに応えようとした映画はいくつかあります。その代表作はなんといっても「2001年宇宙の旅」でしょう。
このSF映画不朽の名作は、印象的な冒頭のシーン(猿人が骨を手にする)でも有名です。驚きが減るでしょうから、詳しくは書きません。
このシーンは、つまり、武器とともに新たな人間性が生まれ(攻撃性)、手にした武器を離せないからこそ、戦争を引き起こし、ついに審判のときを迎えてしまった、みたいな。(ロバート・アードレイやコンラート・ローレンツの書籍をヒントにした、らしい) 説得力のある意見ですが…。

 

  • 「2001年宇宙の旅」の間違い

しかし、あれは間違いです。証拠もあがっているようです。狩猟をしていたから、その武器をそのまま攻撃に使ったのではないか、というような説も否定されています。(山極寿一、2007年『暴力はどこからきたか』NHKブックス)
そもそも、猿人は「争いを避けるために社会性を発展させた」と考えられるのです。

 

  • 証拠は、あなたにも覚えがあるはず

もちろん、多様な意見があります。人口が増えたから病気や食糧難となり、殺意が生まれる、という説もあります。
しかし、ヒトは過密状態に耐え、攻撃を避けようとする、らしい。武器を使った戦争の証拠は約1万年前に農耕が起こってからしか出ていません。
われわれもそうで、例えば、エレベーターのなかでは大声をひかえ、視線を合わせないようにしませんか?
この行動は、争いを避けようとする行動の現れなんだとか。

  • 作品にもみられる

猿と人間の配役はシンメトリックに構成されています。映画の中心は猿と人間の家族です。
また、コバ(トビー・ケベル)と、ドレイファス(ゲイリー・オールドマン)は、エゴではなく、心の悩みを抱えた存在です。ラジオドラマで表現するとしても、分かりやすい構図です。
監督はパンフレットで、この作品の根底に「猿と人間が暴力を使わずに共存する道を見つけられるかどうか」を探ったといいます。そのためにはあれだけの没入感をえられる絵が必要だったのですね。

 

  • 人間はなぜほろびた?

人間がほかの動物とちがうのは、「技術を使うことができる」から。
山極寿一氏によると、食料をめぐるテリトリー意識が、争いのもとになっている、らしい。

この映画で、人間は何を食べているのかわかりません。おそらく何も生産せず、先人の残した食品の残骸にすがって生きているのでしょう。
映画に出てくる人たちは、ダムによる発電を重視しています。この状況を受けいれ、畑を耕すのではなく、先人の遺したエネルギー資源に頼ろうとしているのです。

この場にあう、新しい技術を産み出すより、先人のものを利用しようとしたのです。
このズレこそが争いになり、滅びの要因になったのではないでしょうか。