オーディオ フィクション アトリエ

〈火曜日に更新〉文責:入江玄

モリはどこに? 映画『モリのいる場所』より

 昭和天皇熊谷守一の絵をご覧になって、「これは何歳の子どもの描いた絵ですか?」と尋ねられたという。

ストーリー

 庭。おじいさん(モリ)が杖をついて歩き、地面に這いつくばりアリを凝視する。茶の間で妻と軽口を叩きながら、碁を打つ。
 電話が鳴り、来客がやってくる。モリは「メダカをみて忙しい」。拾った石も眺めている。
 茶の間で、自分のドキュメント番組がやっている。家から出ない「仙人だ」と言われている。モリは一人、家の外へでる。ランドセルを背負った女の子をみて、いそいで帰る。
 夕方、マンションを建設する人たちが看板を撤去するよう苦情にくる。こっそり、現場監督の子どもの絵を見てやり少し打ち解ける。
 夜、買いすぎた牛肉で大宴会。マンション建設の人たちを呼ぶ。みんながいなくなった茶の間。碁を打つ夫婦。アトリエのドアが開けられ、終わる。

なにが面白いの?

 この映画、大好きな作品だ。だからこそいいたい。失礼ながら、大変に失礼ながら、何が面白いのかさっぱりわからない。もう一度いう、大好きな作品だ。だから、小説も読んでみた。だけど、どうして面白いのか、さっぱりわからない。
 なにも物語がない。主人公が成長したりしない。ただの平和な爺さんの一日なのだ。
 答えは副読本にあった。

「~主人公は九十四歳で、庭で生き物を眺めている。それではドラマにならない。九十四歳の葛藤は、疲れるから観たくない。葛藤する暇があったら、体を休めてほしい。じゃあ、どうやって映画にしようか。」(*2)

ですよね、といいたい。

「~たとえば『モリ』という生き物がいたとする。それが映画の中心にあって、そこに、たくさんの人が訪ねてくる映画。そんなことを考えたら、物語が広がっていく気がした。モリはただ毎日を楽しく生きているだけ。そして意外と忙しい。周りが、守一さんと過ごすうちに変わっていく。勝手に影響を受けていく。~」(*2)

みるべきは、モリではないのだ。

「それで、一番しっくりきたのが、一日の話だった。何十年も外へ出ることがなかったと言われる守一さんの、気の遠くなるような長い時間を、ある意味、見せないことで、想像させる方が映画としては、面白いと思った。」(*2)

なるほどな、と。モリのインパクトがありすぎて、不思議な物語になったのか…?

モリのインパク

「~そっくりショーではないのだから、本物の熊谷守一に似せるのが目的ではない。われわれのモリを創らなければならない。」(*2)

と、山崎努さんは書いておられる。このモリ像をこしらえたスタッフさんが、とんでもないのだ。

遠方から来た人に、

守一「風呂は入りましたか?」
朝比奈「え?」
守一「風呂、入りますか?」(*1)

 新幹線を知らず昔の記憶でものをいうから、遠くのお客をもてなすには「風呂」という発想の脚本。見事だ。だが、関係者からそんなことをいった事実はないとクレーム。そこで、

「着替えますか?」
「え?」
「着替えありますか?」(*2)

 に変更されてたという。言葉にだしたときの「風呂」は大きな効果をもっただろう。だがそこを「着替え」でかわす。こちらもお見事。現場では、モリのキャラクターが溢れ出ていたんだろうなあ。

宇宙人、いる?

「そういえば、もう一つだけ心残りがある。この庭を訪れた際、私は石を一欠片持参していた。その石は、次なる惑星の地質調査のためのサンプルなのだが、それを失くしてしまったのだ。どこかに落としたのだろうか。この庭のどこかにあるかもしれない。~」(*3)

 宇宙観測員である彼と、庭から出ないモリ。この対比は面白い。だが小説版には宇宙人の心の声が描かれる。表札を盗んだのも彼だったり(惑星間転送ゲートな鍵だったから)、どうしてモリの絵に興味をもったかなど。…。
 映画では、何も背景は描かれていない。あれで正解だと思う。あれ以上、宇宙人はいらない。というか、宇宙人は…。

少女こそ!

 それより、赤いランドセルを背負った少女が登場するシーンが強烈だった。ふてくされてような表情で、猫じゃらしを振り回し、こちらをむく。それまでずっと庭のなかにいたからか、強烈な色だった。

 オーディオドラマでやるなら、ここだろう。(そもそもあの庭をどうやって表現するんだろうか…)
 背景が唐突に街の風景にかわる。門を出るときは、一瞬静寂があり、モリが外を歩くと、蝉が必要以上に鳴きだしてくる。監獄物のドラマをみていて、やっと脱獄して街を歩くシーンの違和感みたい。
 あの少女こそ、宇宙人ではないか!

「わたしはがっかりしました。やっぱり絵かきさんには会えないみたいです。」(*3)

 小説版では、この少女の方がモリをさがしてやってきたという設定になっている。正直、微妙である。それなら、もっと何人かの友達を誘ってくるのではないか。

 オーディオドラマなら、不審者として、防犯ブザーを鳴らされてしまう、なんて。

孫はどう?

 宇宙人より、孫を溺愛するシーンを挿入してはどうだろう。
 映画の最後、夫婦が誰もいなくなった茶の間で、人生を繰り返すとしたらどうかな、という話題になる。ここで脚本にはないが、映画では妻が「うちの子たちはあんなに早く死んじゃった」ともらす。
 孫を溺愛していたエピソードがある。

「ある時、陽が守一の大工道具を面白がって、ノコギリで柱をごりごりやろうとしたが、守一は止めようとせず、うれしそうに見ていたという。」(*2)

 でも、それを描きすぎてはいけないのだろう。守一氏はいう「生きるのが好きなんだ」と。

 


*1:日本シナリオ作家協会編『‘18年鑑代表シナリオ集』「モリのいる場所」年鑑代表シナリオ集出版委員会 、2019
*2:沖田修一、田村祥蔵、藤森武、山崎努『モリカズさんと私』文藝春秋、2018
*3:小林雄次モリのいる場所朝日文庫、2018